内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年 - 1911年)は、大平台の林泉寺の住職。幸徳秋水らの主張に共鳴して『平民新聞』に寄稿をし、無政府主義・共産主義の宣伝用の冊子『無政府共産』を秘密出版。1910年(明治43)に天皇爆殺を企てたなどとして起訴され、翌年1月に大審院から死刑判決を受け(大逆事件)、同月処刑され死去。僧籍を剥奪された。1993年(平成5)4月に「殉教者」として僧籍回復。 経歴 1874年(明治7)5月、新潟県小千谷町の生まれ(1)。 数え24歳の時に得度し、早川・海蔵寺に一時滞在した(1)。 1904年(明治37)、31歳のとき、大平台の林泉寺の住職となった(1)。 この頃から、幸徳秋水や堺利彦の主張に共鳴し、『平民新聞』に寄稿をした(1)。 1908年(明治41)、林泉寺の須弥壇の中に購入した印刷機を設置して活字を拾い、無政府主義・共産主義の宣伝用の冊子『無政府共産』を秘密出版(1)。 1909年(明治42)、永平寺・比叡山などを行脚して大平台へ戻る途中、国府津の親木橋付近で逮捕された(1)。 1910年(明治43)、天皇爆殺を企てたなどとして、幸徳らと共に「大逆罪」で起訴される(大逆事件)(1)。 1911年(明治44)1月18日、大審院が幸徳、内山ら24人に死刑判決を言い渡した(1)。翌日、12人が無期懲役に減刑されたが、内山の判決は変わらなかった(1)。同月24日、幸徳らと共に絞首刑により処刑され、死去、享年38(1)。遺骨は林泉寺に埋葬された(1)。僧籍も剥奪された(1)。 1993年(平成5)4月に「殉教者」として僧籍を回復された(1)。 参考資料 播摩晃一「大逆事件と内山愚童」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 ...
内山愚童
林泉寺
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箱根湯本駅
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国道1号線
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箱根新道
早雲山地すべり災害
戊辰箱根戦役(ぼしんはこねせんえき、1868年5月20日-29日) 経緯 背景 慶応4年(1868)1月3日、「勤王派」は鳥羽・伏見の戦いに勝利(1)。 将軍・徳川慶喜追討のため「官軍」を東征させ、同年3月13日に江戸が開城した(1)。 小田原藩は、官軍への恭順を約したが、藩内には佐幕論も残っていた(1)。そこで官軍は中井範五郎と三雲為一郎を軍監として派遣して小田原藩を監視し、幕府方の「遊撃隊」に備えるよう命令していた(1)。 佐幕への転向 同年5月20日に、遊撃隊が三島から箱根関所へ迫ってきたとの情報が入り、小田原藩は藩兵300人を出動させた(1)。 このとき、江戸から、「将軍(徳川慶喜)は新政府(官軍)に服せず、数日のうちに海路、小田原へ来る。会津・仙台等の諸藩は、9万人の軍容で、目下、出府の途中にある」という情報が入った(1)。 そこで小田原藩は佐幕に転じ、翌日早朝、藩兵に休戦が伝えられ、小田原藩兵と遊撃隊は合流した(1)。 官軍の中井軍監は、小田原藩兵の労をねぎらうため、卵500個を持参して箱根の街道を上っていったところ、権現坂を下ったところで小田原藩兵・遊撃隊の合流隊と遭遇し、殺害された(1)。 中井が殺害されたと連絡を受けた三雲軍監は、江戸へ上って小田原藩の状況を報告し、官軍は小田原藩に改めて遊撃隊の撃滅を指示した(1)。 箱根山崎の戦い 同年5月26日に小田原藩による遊撃隊の掃討作戦が開始され、両軍は山崎で交戦して、遊撃隊に22人の死者が出た(箱根山崎の戦い)(1)。 遊撃隊は箱根の山中に散開し、本体は鞍掛山から日金山を経て熱海へ逃亡した(1)。箱根の堂ヶ島では、遊撃隊の兵士9人が殺害された(1)。戦いは4日間で終わった(1)。 戦後 戦後、官軍は小田原藩がいったん佐幕に転じ、遊撃隊と共闘して中井軍監を殺害した責任を問うた(1)。 小田原藩では、同年6月に家老の岩瀬大江進が自害(1)。同年9月に藩主・大久保忠礼が蟄居を命じられ、藩封が113千石から75千石に減じられた(1)。江戸に拘禁されていた家老・渡辺了叟は、小田原へ送り返された後、藩主の命令で切腹した(1)。 ...
戊辰箱根戦役
湯本
恩賜箱根公園
富士箱根伊豆国立公園
乙女峠バイパス
箱根ロープウェイ
豆相震災(ずそうしんさい)は、1930年(昭和5)11月26日4:00に発生した地震により、箱根や北伊豆の各地で発生した被害(1)(2)。死者254人(1)ないし272人(2)、全壊家屋2,166戸(2)。 神奈川県測候所の報告によると、震源域は、箱根山から田代、丹那の両盆地を経て、浮橋に至る南北約30kmの断層線(丹那断層)で、マグニチュード7の直下型、宮ノ下から箱根町に至る地域で震度6を記録した(2)。 地震発生前から、同年2月から5月にかけて伊東沖で4,100回を超える有感地震が続き、それが収まった後、8月15日に日金山で強震があり、11月初旬から箱根に近い伊豆北部で群発地震が発生していたため、専門家の間で丹那断層の活動による強震が警戒されていた(2)。 被災状況 神奈川県測候所長だった高木健の地震直後の報告によると、以下のような被災状況だった(2)。 三枚橋の向かい側、神明町の山崖に架かっていた小田原電灯会社の水力発電用導水管が崩落した。 宮ノ下より上で、山角や道路の至る所で崖崩れが起きた。 小涌谷の地内、通称一目千本あたりで道路が大きく波打っていた。 芦之湯温泉場では、松坂屋、紀伊国屋の2旅館、郵便局、小学校、その他民家が被害を受けた。 湯ノ花沢門前の土橋が墜落した。 駒ヶ岳の北東側、標高1,300m付近で2ヵ所の崩落。 芦之湯から精進池に至る国道上に、二子山からの落石が3ヵ所あった。 箱根神社の拝殿の石積みが南方に崩れ、神殿と神垣の礎石が東に移動。 元箱根町から杉並木までの芦ノ湖沿いの国道のほとんどに亀裂が入った。 箱根離宮では、官舎が流失し、御殿が倒壊した。 箱根町では9割方の家屋が全半壊し、9人が死亡、重軽傷者多数の見込み。 孫助山から山津波が起きて箱根町に達し、万福寺が埋没した。 新国道はほぼ全域にわたり崩れや亀裂の被害が出た。 ...
豆相震災
和宮 親子(かずのみや ちかこ、1846年 - 1877年) 経歴 (推定1846・弘化3年)仁孝天皇の第8皇女として生まれる(1)。 文久元年(1861)、徳川幕府の懇望により、第14代将軍・徳川家茂と結婚(1)。 4年余り後(慶応2・1866)、家茂が第2次長州征伐の陣中で陣没(1)。 2年後(明治元・1868)、戊辰戦争・明治維新では、婚家である徳川家の存続のために尽力(1)。 1877年(明治10)、脚気を患い、侍医の勧めで同年8月7日に東京を発ち、塔ノ沢温泉の旅館「元湯」(環翠楼)で療養(1)。一時は容態がかなり回復し、歌会を開いたり、村の子供たちを招いたりした(1)。 同年8月末、病状が急変し、翌9月2日に脚気衝心(脚気による心臓発作)のため死去、享年32(1)。 遺骸は同月6日早朝に塔之沢を発ち、東京・麻布の御殿(麻布御殿)に安置された後、遺言により芝・増上寺の夫・家茂の墓の隣に葬られた(1)。法号「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」(1)。 1883年(明治16)に旅館「元湯」と塔之沢・阿弥陀寺(芝・増上寺の末寺)で7回忌の法要が営まれた(1)。このとき、阿弥陀寺は増上寺の別院とされ、増上寺から阿弥陀寺へ、和宮が夫・家茂の戦勝を祈願していたという「黒本尊御代仏」が贈られた(1)。 参考資料 加藤利之「皇女和宮終焉」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、14-15頁 ...
和宮親子