本多節親旧地(ほんだつぐちか?きゅうち)は、旧小田原藩主・阿部備中守正次の扶助を受けていた本多節親(本多主膳正)が、元和年間(1615-1624)に阿部正次が小田原から岩槻へ移封された際にこれに従って移住した先の岩槻で暮らしていた場所。具体的に何処なのかは不明のため、岩槻城に仮置き。節親は正保元年(1644)12月23日に死去した。(1)

節親の孫に、本多八右衛門を名乗り、慶安3年(1650)に江戸に召し出されて御書院番・大久保右京亮の与力となった人物がいる(1)(2)。八右衛門の子孫は19世紀前半頃、本多八三郎と称した(1)

参考資料

  1. 風土記稿 曽我里 上曽我村の項
  2. 河田羆『大磯誌』附録 国府村 本多信親邸址、富山房、1907